■その他の成功例
明治・大正期に成功した通販は、種苗と時計とお茶だけではありません。その他にも工夫を凝らして成功した会社がありましたし、総合カタログも登場しました。このような事例をご紹介します。
【肉筆団扇地紙卸:島田整美堂】
団扇地紙印刷の世界で新興の島田整美堂は、従来の販売方法が老舗によってシェアを独占されていたため、通信販売に打って出ました。
初回は既存顧客に1,000通のDMを発送して600口の受注と大成功をおさめました。しかし、新規顧客にまで発送先を広げた第2回、第3回は大失敗。そこでその原因の調査してみました。すると、
・カタログ送付のタイミングが悪い(他社に発注した後にカタログが届く)
・通販は粗悪品であると中傷された
・価格が明記されているため競合他社がダンピングを仕掛ける
・カタログ発行元への不信感
などの理由が浮かび上がってきました。
この調査報告をもとに島田整美堂は、「まず少なくとも10年の後から利益を上げる企てで、それまで根気よく地盤を固めていかねばならぬ」と決心。カタログ数を3万部から2万部に減らすとともに、毎年変えていた発送先を固定し、見込み客を変更せずに送り続けることにしました。そして、3年目にも注文がこない場合はリストから外すことに決めました。
また、発行時期を繰り上げて注文しやすいよう工夫し、カタログにも改良を加えました。カタログは「肉筆」を強調したもので、キャッチコピーでは肉筆團扇地紙の特長を、
第一 最も高尚 最も優雅
第二 見本よりも優良の現品
第三 張上げて更によく見える
第四 價が非常に安い
第五 別註文の揮毫にも應ず
第六 迅速に間に合う
第七 信用のある團扇屋に扱ふ
としています。
そして、ハガキの倍サイズの石版4度刷り広告10万枚を、人口2万人以下の都市や町村の呉服商、酒造家、小間物屋、料理店などに限った広告郵便で発送。
冊子体のカタログ3万部は、人口2万以上の都市で上等の団扇を誂えるような商店等を商工会人名簿からピックアップしたリストに発送しました。その結果、注文数は「年々おもしろいほど激増」したそうです。
【専業通販会社】
日本初の専業通販会社・東京用達合資会社(設立者氏名不明)は、1894~95年(明治27~28)の日清戦争の頃に発足しました。1902~03年(明治35~36)発足という説もあります。
東京用達合資会社は、カタログを春秋2回発行し、広範なアイテムを取扱うアメリカ式の通販で業績も順調でしたが、創業者の死去により廃業解散しました。しかし、その後社員が分散して通販事業を興し、通販業者乱立の時代を迎えます。
東京用達合資会社の直系としては、森又組と東京通商合資会社が、ともに海外植民地の在留邦人を顧客として発展。森又組(代表者:福中又次)は、美しいカタログで一時は三越の通販部をしのぐ勢いでしたが、2社とも数年で廃業しています。
理由はよくわかりませんが、明治の研究家・浜田四郎は、アメリカと比較して購買力の低さ、印刷や発送費用の高さ、利益率の低さ、大量受注に応じられない生産態勢が原因としています。
また、2社が廃業する頃の1911年(明治44年)には大谷兄弟商会が、1912年(大正元年には)桜井商会、大正屋などが参入しました。
大江兄弟商会は、個人向けの通販からスタートして、ことごとく失敗。社名を「大江商会」と改め、地方小売店向けの卸通販として成功しました。大江商会は、問屋では扱わないよえな小ロットの注文も受け、大口も小口も同一価格で安く提供した他、返品や交換にも応じました。しかし、大正の恐慌のあおりを受けて大正9年に倒産し、ハリキン商会に営業権を移譲しています。
以下は、大江氏の語った通販成功のためのアドバイスです。
1.販売価格は仕入原価に適正な利潤をもって勧めること
2.商品に精通し、安く売ることに重きを置くこと。便利さよりも安さである
3.我が国では売上額1,000万円程度までの通信販売はできるかもしれないが、それ以上の大規模の通販会社は、経験上採算が難しい
4.通販は一般問屋の販売補助策として有望である
5.客に満足を売ることに留意すること
6.価格の公正を示し、決して割引をしないこと
7.どのような小さな注文でも親切に取引すること
8.出荷を迅速にすること(受注後12時間以内に出荷)
9.苦情の解決は迅速に行うこと
当時の1,000万円が現在のいくらの相当するのかも含め、現在では当てはまらないこともありそうですが、CSを大切にして正直な商売をしようというのは、いつの時代も変わらない成功のための法則なのです。
【百貨店の通販】
百貨店が通販に進出したのは、明治30年代です。百貨店ならではの「信用」をバックボーンに大きな発展を遂げました。当時の百貨店は通販を、
①売上増大・利益獲得の手段
②商圏の拡大・地方客の吸収
③顧客サービスの一環
と捉えていました。
明治から昭和初期の日本百貨店組合員87店のうち21店が通販を実施していました。しかし、大正の大恐慌を境にして衰退し、通販部門は廃止・縮小に追い込まれました。最大規模を誇った三越でさえ、通販部は販売部の中に吸収されていきました。
●高島屋
高島屋は1899年(明治32年)5月、京都本店に地方掛を設置し、百貨店としては最初に通販に参入しました。1902年(明治35年)3月には、京都新聞や大阪朝日新聞の協力で編纂された写真入りのカタログ「新衣装」を発刊。表紙に意趣を凝らした情報発信誌として地方の有力顧客獲得に威力を発揮しました。
●三越
三越が通信販売に参入したのは、1899年(明治32年)10月。最初のカタログ「花衣」は、総ページ数365の豪華な冊子で、尾崎紅葉の小説なども掲載されていました。その後、「夏衣」「春模様」「夏模様」を経て「時好」というカタログに行き着きますが、小説や流行情報なども掲載し、読む雑誌としても充実した内容でした。モデルには、有名人令嬢や芸妓を起用しました。
他にも「ご婚礼の支度」「御髪飾の栞」「靴と鞄」「時計と指輪」「現代婦人化粧法」などのスペシャルカタログも発行。3色刷のカタログは1色刷よりも1.5倍の効果があり、見本をつけるとさらに5倍の効果があったそうです。
代金は正札主義で、店頭購入でも通販でも同じ金額に設定していました。また、前金制を採用していましたが、代金引換も可能でした。なお大正年間に入ると、返品交換にも応じています。
発足当時は1日の注文数が15~20口でしたが、翌年には150~160口に増加。明治41年には「地方係」の名称を「通信販売部」に改めました。係員は150名(全従業員数の約1割)で、1日の注文数も1,000口となり、三越が発送する郵便小包は、東京全市の13%を占めたそうです。売上高も明治末期には三越総売上高の2割を占めました。
利用者は主に地方と台湾、満州などの海外在留邦人でした。販売を促進するために、「註文の栞」「三越タイムス」をはじめ、靴や鞄、貴金属などのスペシャルカタログを送付。絵はがき、在京中の顧客への案内などパーソナル・コミュニケーションも行われていました。また、クレームがあればすぐに係員を現地へ向かわせるといった丁寧な対応で、ロイヤリティの確保にも努めています。
明治37年1月の「商業界」誌上で三井呉服店理事の高橋義雄は、「覚悟せよ」という論文を掲載。東京の百貨店が地方商圏を掌握する旨の論旨を展開するほど、通販は活況を呈しました。
●白木屋
白木屋は1904年(明治37年)に通販を開始。7月7日に「家庭のしるべ」(後に「流行」)を発刊しています。他社の広告を掲載し、広告費で発行費用をカバーしていました。販売にあたっては「購買品の選択はすべて当方に一任せらるべきこと」とし、白木屋が各人の年齢、体格、好みから選んだ着物を送る方法でした。この選定にあたっては、お客様の立場に立って行うことを第一義としています。
明治44年実績では、手紙到着数が1日平均300通、カタログの発行部数は4月18,000部、7月14,000~15,000部。当初3~4名だった通信販売課員が、44年には35名に増えていました。
次回からは、昭和そして第二次世界大戦後に入っていきます。ご期待ください。