●リーダーズダイジェストの栄光
リーダーズダイジェストは、終戦の年1945年に日本に進出してきました。「日本版リーダーズダイジェスト」はその名の通り、話題の書籍や雑誌記事などをダイジェストして掲載した月刊誌で、文化に飢えていた戦後の人たちの圧倒的な支持を受けました。
この「日本版リーダーズダイジェスト」は、発刊当初は100%書店で販売していましたが、徐々に定期購読者を募って直接販売するようになり、最終的には9割以上が直接読者の元に届けられました。
定期購読者への直接販売は、読者数がはっきりわかっているという大きなメリットがあります。発行部数が確定できるので、無駄な廃棄分がなくなります。また、しっかりとした根拠のある読者数は、広告クライアント獲得の強力な支援にもなりました。さらに、定期購読料を前金でもらえるため、経営が安定するという効果もありました。
リーダーズダイジェスト社では、定期購読者を獲得するために、毎年新年には斬新なフックやギミックといった仕掛を備えたダイレクトメールを400万部もばらまき、定期読者を募っていきました。これは、当時の郵政省や印刷所を巻き込んだ、一大イベントだったといいます。
そして、リーダーズダイジェストが行った雑誌への商品広告掲載や同じ顧客に何度も利用してもらうリピート販売の手法、そして景品や特典で購入を促す技術は、その後の日本の通信販売に大きな影響と功績を残しています。
●効果的なダイレクトメールの制作手法
成功するダイレクトメールに必要なものは、リスト、オファー(特典)、クリエイティブです。成功の鍵は、ベネフィットを明確に提示し、心に響くオファーを付け、開けてみようと思うドアオープナーを入れ、簡単にゴミ箱に捨てられないように公的な雰囲気にして、パーソナルな呼びかけをすることと言われています。
・封筒の中にボールペンなどの小物を入れて開封率を高める(オープナー)
・外封筒(OE)に気を引くコピーを1~2行入れる
・お客様の名前を印字して私信のように感じさせる
・ベネフィットを強調して欲求を起こさせる
・特典シールやスクラッチなどのギミックを駆使してアクションを促す
・特典締切期日を設定するなどして上手に念押しをする
こういった手法の具体例は、詳しく「タイムマシーン」に掲載されていますので、ぜひお読みください。これらは、当時アメリカなどで続々と開発されていた、ダイレクトマーケティングの成功事例も取り入れながら作られていたのです。
ダイレクトマーケティングの神様とも言われるレスター・ワンダーマンは、顧客の好きな言葉は「無料」「新しい」であり、先に送りつけて「気に入ったら買ってください」というセンド・ノー・マネーというオファーが効果的であることを見つけました。また、購入意欲を促進させるテコの部分はオファー、支払い方法や期日、メディアの利用方法、製品やサービスの提供方法など、いろいろあると言っています。さらに、断絶の時代で知られるP・F・ドラッカーは、最も優れた広告は、見た人すべてが自分のために書かれたと感じる広告であると述べています。
●リーダーズダイジェストの挫折
さて、出版社であるリーダーズダイジェストが大きく変わったのは、1960年のレコード販売からです。定期購読者名簿を利用したこのレコード販売は大ヒットになりました。これに気をよくした同社は、英語教材やラジオ、ステレオ、リトグラフなどを立て続けに販売し、1969年には世界大地球儀をヒットさせるなど、ほとんど通信販売の会社となり、出版活動は軽視されていきました。
その後、リーダーズダイジェストの企画開発商品は、仏像、キャンプセット、スパイスセット、香炉など次から次へと生まれましたが、徐々に出版社としての文化的な側面がなくなっていきました。どこの会社が作ってもいいような商品を、売れそうだから企画するのです。しかし、それは当然のことでした。リーダーズダイジェスト社は、すでに通販のための会社だったのですから。
ただし、通販会社としては完全なプロフェッショナルではありませんでした。品質管理が不徹底だったため欠陥商品が多く、度々消費者センターに苦情が持ち込まれました。
国内でソニーや松下、日立などが熾烈なラジオ開発・販売競争をしているときに、リーダーズダイジェストは香港製のラジオを売っていたのです。これでは、お客様を満足させられるわけはありません。
また、最初は喜ばれていたダイレクトメールの仕掛けも、だんだんと飽きられてきました。陳腐な景品で読者を釣って、適当な商品を売りつけるのが「リーダイ商法」と言われるようになりました。
だいたいが、ちょっとした仕掛けで、得をしたと感じる消費者を釣り上げる。それができるのが素晴らしいDM、大成功のダイレクトマーケティングと喜んでいたことが問題なのです。ダイレクトマーケティングは、もっと謙虚にお客様を大切にすべきものでした。レスター・ワンダーマンも、通販の目的は単に売ることではなく、顧客と長期に亘る親密な関係を築くことと言っているのです。
海外での通信販売促進の常套手段である豪華な懸賞や景品が、公正取引委員会の規制により、日本ではできなかったことも不運でした。
そして、前回も述べましたが、日本の郵便料金の高さは致命的でした。
当時、リーダーズダイジェスト社は年商の約3割を郵政省に納めていたといいます。1985年に支払った郵便料金は20億円で、日本で最大の郵便利用者でした。海外では大口利用者への割引制度が充実しているため、経営を圧迫する事態にはなりません。リーダーズダイジェスト社が支払った20億円も、アメリカと同率の郵便割引率があれば5億円で済んでいたそうです。
「リーダーズダイジェスト日本版」最後の編集長・塩谷紘氏の著書『「リーダイ」の死』によると、「リーダイ」崩壊の最終段階では、或るアメリカ人経営陣の介在や労働組合の問題もあったようです。
しかし、経営不安に至る読者数減少の最大の要因は、やはり顧客を満足させられなかったことでしょう。定期購読契約の初年度は半額ですが、2年目には定価になりますから、読者は価格が倍になったと感じます。こうした長く付き合っている顧客より一見さんの方が得をするという商売は、日本人の感覚には合いません。
そして、顧客が減少していったときに、日経マグロウヒル社から盗まれた読者リストを購入して使用するという事件が起きました。新規顧客ばかり狙わずに、自社の顧客へのCSをもっと考えていれば。そして顧客リストの大切さを把握し、顧客のライフスタイルを認識するように努め、新たなライフスタイルまでも提案していれば、リーダーズダイジェストの栄華はもっと続いていたのではないかと思うのです。
次回は1960年代以降の通信販売について見ていきます。
●戦前の通販事情
明治・大正と、日本の通信販売は、成功しそうな会社が出てくると粗悪品を売る詐欺まがいの業者が現れて信用を失ってしまうという負のループの中で喘ぎ、その傾向は昭和に入っても続いていました。多くの日本人は、一人ひとりの場合には親切で正直ですが、団体として行動すると倫理を欠くことがあるようです。最近の食品偽装なども根っこは同じなのかも知れません。
ですから戦前は、三越や高島屋など信頼されている有名百貨店の外商がエリアを拡大した形態での通販の他には、昭和6年に増進会出版社、昭和12年に西本貿易、昭和14年にエヌ・ジー・シーが参入した程度でした。少し歩けば商店がある日本では、日常使用する品物を買うのに通信販売は不向き。欲しいときにすぐ手に入らないし、商品を確認できない不安もあって、通信販売は必要とされなかったのです。
また、アメリカでは、1874年にシカゴでモンゴメリ・ワードが、1886年にはシアーズ・ローバックの前身であるR.W.シアーズ時計会社が創業し、事業を拡大してきましたが、これらの会社が行ったカタログ通販は、メーカーから直接現金で仕入れることで通常価格の平均40%ダウンを実現する薄利多売方式が基本。しかし、こうした販売形態は、日本では通信・運送コストが高いためにできませんでした。
実際、日本の高額な郵便制度は、通信販売の成長を阻害する大きな要因でした。高い郵便料金はDMによる顧客獲得を採算の合わないものにし、カタログ通販を圧迫しました。そして、世界各国と比較しても異常に高い日本の電話・通信料金は、通販とともにインターネットの普及も遅らせてしまったのでした。
さて、そのアメリカでも1920年代に入ると大型のショッピングセンターなどができ、大都市以外でも低価格で商品を購入できるようになりました。そこで、シアーズやモンゴメリも百貨店事業に参入。一時的には割賦販売制度などで成長しましたが、この有店舗への過剰な意識が裏目に出て、最終的に撤退及び倒産という結果になりました。
その原因は、本当は財産として大切にすべきだった顧客情報をないがしろにし、個々の顧客に向けたライフスタイル提案を怠ったためです。自らが顧客情報という非常に大きな経営資源を持っていたことに気づかなかったのです。
●戦後の通販-リーダイがやってきた
第二次世界大戦後、社会が安定するまでは通信販売の姿はありませんでした。終戦の翌年1946年では、わずかに健康機器の「中山式産業」、痔疾患薬の「ヒサヤ大黒堂」、そして戦前から続けている「タキイ種苗」が見られるだけでした。しかしこの年、その後の日本の通信販売に大きな影響を与える「日本語版リーダーズ・ダイジェスト」が発刊されたのです。
「リーダーズ・ダイジェスト」はその名の通り、話題になりそうな書籍の内容や雑誌記事などを短くダイジェストして掲載する月刊誌でした。長く暗い時代を終え、文化に飢えていた戦後の人たちに圧倒的な支持を受けました。特に異彩を放ったのがその販売方法。当初は100%書店で売っていたものを、結局的に予約購読者を募集して、次第に直接販売に切り替えていったのです。
また、1951年(昭和26年)には、高島屋の通販が復活。1952年には日本生活協同組合連合会ができ、1953年には大丸ホームショッピングが復活しました。さらに、1954年にはムトウ、1955年には日本通信教育連盟、千趣会など、現在に続く通信販売の大手が続々産声をあげましたが、やはりその後の通信販売業界に大きな影響を与えたのは、リーダーズダイジェスト。1960年のレコード通販を皮切りに続々と目を引く商材を登場させ、斬新なダイレクトメールを駆使して売りまくったのです。
●花開くダイレクトマーケティング
アメリカでは、戦前から通信販売は一定の業績を上げていましたが、戦後に入ってクラブ会員制(頒布会方式)が導入され、一気に売上げを伸ばそうとしていました。バラの苗を中心にした花の苗を届ける頒布会やブッククラブなども好調でしたが、もっとも人気があったのがレコードの頒布会(レコードクラブ)です。
こうした通販業界の売上げ増加が、ダイレクトメールや雑誌・新聞広告の制作技術を進化させました。通信販売はご存知の通りテストを行える販売方法です。スプリットラン・テストを繰り返して、最大の効果が得られるクリエイティブやオファー(特典)を開発することができました。
通販関連の広告代理店WRKを創業したレスター・ワンダーマン氏は、それまでセールスレター屋とかダイレクトメール屋と言われていた業界をダイレクト・マーケティング広告業として認知させる努力を展開していました。
ワンダーマン氏が開発し、効果をあげた広告制作上の事柄を列記すると以下の通り。ほとんどが現在も生きている教えです。
・ベネフィットを明確に伝えるヘッドライン
この商品を買うことで顧客が得られる喜びを的確に伝える。
・心に響くオファーを付ける
うれしい、お得と感じる特典を提供する。
・DMにはドアオープナーを入れる
何かが入っている封筒を開けずにゴミ箱に捨てる人はいない。
・単なるDMと思われない公的な雰囲気
一目で広告だとわかる体裁にしない。
・私だけのために思わせるデザイン
パーソナルな感じを出す。
「ああ、なるほど」と感じられたのではないでしょうか。今も効果的なDMの作り方として教えられていることが、この時代に生まれているのです。
さて、当初は雑誌の発行部数を効率的に決めるために始まったリーダーズダイジェストの定期購読者募集でしたが、1960年に購読者名簿を活用したレコード販売が大成功したことから、次々にこうしたアメリカの最新のダイレクトマーケティング技術を駆使したDMを作り、送り続けたのです。
次回はリーダーズダイジェトの栄光と挫折をお届けします。
■その他の成功例
明治・大正期に成功した通販は、種苗と時計とお茶だけではありません。その他にも工夫を凝らして成功した会社がありましたし、総合カタログも登場しました。このような事例をご紹介します。
【肉筆団扇地紙卸:島田整美堂】
団扇地紙印刷の世界で新興の島田整美堂は、従来の販売方法が老舗によってシェアを独占されていたため、通信販売に打って出ました。
初回は既存顧客に1,000通のDMを発送して600口の受注と大成功をおさめました。しかし、新規顧客にまで発送先を広げた第2回、第3回は大失敗。そこでその原因の調査してみました。すると、
・カタログ送付のタイミングが悪い(他社に発注した後にカタログが届く)
・通販は粗悪品であると中傷された
・価格が明記されているため競合他社がダンピングを仕掛ける
・カタログ発行元への不信感
などの理由が浮かび上がってきました。
この調査報告をもとに島田整美堂は、「まず少なくとも10年の後から利益を上げる企てで、それまで根気よく地盤を固めていかねばならぬ」と決心。カタログ数を3万部から2万部に減らすとともに、毎年変えていた発送先を固定し、見込み客を変更せずに送り続けることにしました。そして、3年目にも注文がこない場合はリストから外すことに決めました。
また、発行時期を繰り上げて注文しやすいよう工夫し、カタログにも改良を加えました。カタログは「肉筆」を強調したもので、キャッチコピーでは肉筆團扇地紙の特長を、
第一 最も高尚 最も優雅
第二 見本よりも優良の現品
第三 張上げて更によく見える
第四 價が非常に安い
第五 別註文の揮毫にも應ず
第六 迅速に間に合う
第七 信用のある團扇屋に扱ふ
としています。
そして、ハガキの倍サイズの石版4度刷り広告10万枚を、人口2万人以下の都市や町村の呉服商、酒造家、小間物屋、料理店などに限った広告郵便で発送。
冊子体のカタログ3万部は、人口2万以上の都市で上等の団扇を誂えるような商店等を商工会人名簿からピックアップしたリストに発送しました。その結果、注文数は「年々おもしろいほど激増」したそうです。
【専業通販会社】
日本初の専業通販会社・東京用達合資会社(設立者氏名不明)は、1894~95年(明治27~28)の日清戦争の頃に発足しました。1902~03年(明治35~36)発足という説もあります。
東京用達合資会社は、カタログを春秋2回発行し、広範なアイテムを取扱うアメリカ式の通販で業績も順調でしたが、創業者の死去により廃業解散しました。しかし、その後社員が分散して通販事業を興し、通販業者乱立の時代を迎えます。
東京用達合資会社の直系としては、森又組と東京通商合資会社が、ともに海外植民地の在留邦人を顧客として発展。森又組(代表者:福中又次)は、美しいカタログで一時は三越の通販部をしのぐ勢いでしたが、2社とも数年で廃業しています。
理由はよくわかりませんが、明治の研究家・浜田四郎は、アメリカと比較して購買力の低さ、印刷や発送費用の高さ、利益率の低さ、大量受注に応じられない生産態勢が原因としています。
また、2社が廃業する頃の1911年(明治44年)には大谷兄弟商会が、1912年(大正元年には)桜井商会、大正屋などが参入しました。
大江兄弟商会は、個人向けの通販からスタートして、ことごとく失敗。社名を「大江商会」と改め、地方小売店向けの卸通販として成功しました。大江商会は、問屋では扱わないよえな小ロットの注文も受け、大口も小口も同一価格で安く提供した他、返品や交換にも応じました。しかし、大正の恐慌のあおりを受けて大正9年に倒産し、ハリキン商会に営業権を移譲しています。
以下は、大江氏の語った通販成功のためのアドバイスです。
1.販売価格は仕入原価に適正な利潤をもって勧めること
2.商品に精通し、安く売ることに重きを置くこと。便利さよりも安さである
3.我が国では売上額1,000万円程度までの通信販売はできるかもしれないが、それ以上の大規模の通販会社は、経験上採算が難しい
4.通販は一般問屋の販売補助策として有望である
5.客に満足を売ることに留意すること
6.価格の公正を示し、決して割引をしないこと
7.どのような小さな注文でも親切に取引すること
8.出荷を迅速にすること(受注後12時間以内に出荷)
9.苦情の解決は迅速に行うこと
当時の1,000万円が現在のいくらの相当するのかも含め、現在では当てはまらないこともありそうですが、CSを大切にして正直な商売をしようというのは、いつの時代も変わらない成功のための法則なのです。
【百貨店の通販】
百貨店が通販に進出したのは、明治30年代です。百貨店ならではの「信用」をバックボーンに大きな発展を遂げました。当時の百貨店は通販を、
①売上増大・利益獲得の手段
②商圏の拡大・地方客の吸収
③顧客サービスの一環
と捉えていました。
明治から昭和初期の日本百貨店組合員87店のうち21店が通販を実施していました。しかし、大正の大恐慌を境にして衰退し、通販部門は廃止・縮小に追い込まれました。最大規模を誇った三越でさえ、通販部は販売部の中に吸収されていきました。
●高島屋
高島屋は1899年(明治32年)5月、京都本店に地方掛を設置し、百貨店としては最初に通販に参入しました。1902年(明治35年)3月には、京都新聞や大阪朝日新聞の協力で編纂された写真入りのカタログ「新衣装」を発刊。表紙に意趣を凝らした情報発信誌として地方の有力顧客獲得に威力を発揮しました。
●三越
三越が通信販売に参入したのは、1899年(明治32年)10月。最初のカタログ「花衣」は、総ページ数365の豪華な冊子で、尾崎紅葉の小説なども掲載されていました。その後、「夏衣」「春模様」「夏模様」を経て「時好」というカタログに行き着きますが、小説や流行情報なども掲載し、読む雑誌としても充実した内容でした。モデルには、有名人令嬢や芸妓を起用しました。
他にも「ご婚礼の支度」「御髪飾の栞」「靴と鞄」「時計と指輪」「現代婦人化粧法」などのスペシャルカタログも発行。3色刷のカタログは1色刷よりも1.5倍の効果があり、見本をつけるとさらに5倍の効果があったそうです。
代金は正札主義で、店頭購入でも通販でも同じ金額に設定していました。また、前金制を採用していましたが、代金引換も可能でした。なお大正年間に入ると、返品交換にも応じています。
発足当時は1日の注文数が15~20口でしたが、翌年には150~160口に増加。明治41年には「地方係」の名称を「通信販売部」に改めました。係員は150名(全従業員数の約1割)で、1日の注文数も1,000口となり、三越が発送する郵便小包は、東京全市の13%を占めたそうです。売上高も明治末期には三越総売上高の2割を占めました。
利用者は主に地方と台湾、満州などの海外在留邦人でした。販売を促進するために、「註文の栞」「三越タイムス」をはじめ、靴や鞄、貴金属などのスペシャルカタログを送付。絵はがき、在京中の顧客への案内などパーソナル・コミュニケーションも行われていました。また、クレームがあればすぐに係員を現地へ向かわせるといった丁寧な対応で、ロイヤリティの確保にも努めています。
明治37年1月の「商業界」誌上で三井呉服店理事の高橋義雄は、「覚悟せよ」という論文を掲載。東京の百貨店が地方商圏を掌握する旨の論旨を展開するほど、通販は活況を呈しました。
●白木屋
白木屋は1904年(明治37年)に通販を開始。7月7日に「家庭のしるべ」(後に「流行」)を発刊しています。他社の広告を掲載し、広告費で発行費用をカバーしていました。販売にあたっては「購買品の選択はすべて当方に一任せらるべきこと」とし、白木屋が各人の年齢、体格、好みから選んだ着物を送る方法でした。この選定にあたっては、お客様の立場に立って行うことを第一義としています。
明治44年実績では、手紙到着数が1日平均300通、カタログの発行部数は4月18,000部、7月14,000~15,000部。当初3~4名だった通信販売課員が、44年には35名に増えていました。
次回からは、昭和そして第二次世界大戦後に入っていきます。ご期待ください。
(11月25日更新)
■商材で異なる企業の戦略
ここで、明治・大正期に日本で実績をあげていた通販会社を整理してみましょう。
商材によってターゲットも違いますから、カタログなどの作り方や顧客への接し方にも工夫が凝らされていました。
【時計通販:天賞堂】
顧客を中流以上におき、広告を通じたブランド戦略を展開して発展しました。
美しいカタログと著名人の名を有効に使ったブランド戦略を実施。一切値引きをしない代わりに保証書を発行して品質の高さをアピールし、信用と企業イメージを高めて成功を収めたのです。
・こだわりのDM
1882年(明治15)4月、銀座の印判店・天賞堂(創業者・江沢金五郎)が営業案内兼カタログを華族・官庁・企業・地方の地主等に送付しました。
「一流の品を作り、これを大規模に宣伝する」というのが天賞堂の戦略。印刻は天皇御璽制作者に、宣伝文は一流とされていた学者や文学者に依頼。25年にはこれらの名を連ねた広告を作成しました。これは、今でいうイメージ広告です。
こうした高級イメージを全面に押し出したブランド戦略で成功した天賞堂は、印鑑から時計へ、さらに宝飾品へと取扱品目を広げていきました。
・時計販売における企業戦略
時計の販売に際して、天賞堂がとった企業戦略は以下の通り。ここでも企業イメージの向上に力を注いでいます。
①広告第一主義 企業イメージを上げるように工夫。
②通販手法 代金先払い・商品後渡し。返品交換期間を30日と設定。
③正札主義の実行 1銭1厘たりとも値引きしない。
④出張販売 上流階級への出張販売実施。
⑤保存請負証書の交付 保証金を取って10~30年と超長期の保証書を発行。
⑥時計保険料金の返戻 明治25年に上記保証金を廃し、無償で保存請負証書を交付。
【製茶通販】
製茶の通販は、明治末期から大正初期にかけて盛んになりました。山城国宇治付近で、茶の販売を伸ばすために通販手法が取られ、古川七碗堂、林吾妻園、翠香園の三者が代表的な成功者でした。
林吾妻園の手法は、新規顧客獲得のために無料サンプルを配布するとともに、ディーラーヘルプのための広告を展開。同時に、継続顧客に対しては、売上高に応じて景品券を発行しました。また、年賀・暑中見舞い、水害などの災害時には慰問広告を出すなどしてパーソナル・コミュニケーションも図っています。
なお、同園や古川七碗堂では顧客名簿を各県別イロハ順に管理し、マーケティングに活用していました。
また、現存する翠香園は、1922年(大正11年)「旨いお茶を安く売る店」として通販DMを開始しました。広告郵便を使った2枚折り石版2色刷で代金引換を採用。広告郵便制度が廃止されるまでに約500万枚の広告物を配布し、3万人の顧客リストを獲得しました。そして、この3万人に対して愛茶家を紹介してもらう紹介制度でさらにリストを増やしています。
注文の少ない顧客には、隔月で「翠香茶報」という機関誌を送付。それでも受注がない顧客には「御用伺書」を発送して受注を獲得しました。顧客の脱落を防ぐため、「利益配分法」というスタンプ制度を実施したほか、年末大売り出しや初荷売り出し、新茶大売り出しなど季節ごとの年中行事も行いました。
このように、現在盛んに言われているCRMを、すでにこの時代の成功者は取り入れていました。成功するための根幹の法則は、今も昔も変わらないのです。
その他、メールオーダービジネスの研究家でもある村田千太郎が店主を務める京都田辺の村田園では、広告郵便ではなく、ターゲットを絞った「三種認可の新聞を用いた宛名式新聞広告」で成功を収めました。
物価が下落し一般農家が大不況に見舞われていた大正初期、裕福で購買力のある官吏にターゲットを絞って部数2,000余部で期間注文数400(レスポンス率2割)を果たしました。村田は「宛名式新聞広告の有効なるとともに、宛先の選択は第一の要点たることを忘れてはならぬ」として、リストの絞り込みの重要性を指摘しています。
次回は、その他の明治・大正の通販成功例についてお話しします。
■成功者たちの通販事業心得
明治の企業家たちが培った通信販売事業の心得をご紹介しましょう。
・誠心誠意を基本とする
・美麗なカタログを作る
・誇張した広告をしない
・顧客本位のコピーを書く
・顧客の信用を得ること
・分類したカタログを制作する
・男女対応の区別をする
・都会と地方への対応の差
・知力と経験と信用が大切
・前金制を撤廃する
・迅速な対応をする
・返品を自由とする
だそうです。
どう感じられますか?信用を得ることを第一に考えるとともに、現代のダイレクト・マーケティングで必要な、データマーケティングやフルフィルメント、またエリアマーケティングやパーソナルコミュニケーションについても言及しています。
驚くのは、このときすでに前金制の撤廃と返品の自由を謳っていることです。1990年代にランズエンドが日本に上陸したとき、いつでもどんな理由でも返品自由というコピーに衝撃を受けたものですが、明治の終わりに当時の企業家たちはすでに謳っていたのです。言い換えれば、それはCSが一番大切ということです。
■当時の通販への視線
しかしまた、明治43年に、東京高等商業学校の石川文吾教授が「通販が日本で成立しない理由」として以下の5つを挙げていますから、それもご紹介します。
①村と都会の距離感
日本の国土は狭くて人口過密なので、少し歩けば日用品の買い物に不便はない。そのため、通信販売を利用して都会から取り寄せる必要はない。
②商品に対する信用程度の相違
米国ではカタログと実物が違うのはあり得ないことになっているが、日本の消費者は商人をそれほど信用していない。
③カタログ印刷の困難
日本の印刷は、技術が幼稚で実物の色彩を見ることはできないし価格も高い。
④郵便制度の不完全
米国では郵便制度が遺憾なく発達しているが日本では未発達。米国のように小包、為替、カタログが安心して迅速に、そして安価で届けることができない。
⑤日本語圏の範囲が狭い
英語のように広い地域に言葉が通用しない。
この石川教授の意見を精査すると、現在では解決しているインフラもあるし、できるようになった技術や当時とは異なる人々のライフスタイルもあります。
①の村と都会の距離感については、ただ商品が買えれば良いという生活ではなくなり、消費者はより便利なもの、よりセンスの良いものを求めています。また逆に産地直送のように美味しいものや本物への志向が強まりました。
②の商品に対する信用程度の相違は、まだ一部に悪徳業者はいるでしょうが、法的規制の強化や通信販売協会など業界団体の努力で排除される傾向にあります。
③④については、印刷技術は進歩して世界最高水準となりその価格も安くなっています。ただ、郵便料金は諸外国に比べると相変わらず高いままで、最大の通信販売発展の阻害要因ですが、宅配便などの台頭などにより状況はかなり改善されています。
つまり、⑤を除いては日本も通販に適した状況になっているわけです。
しかし、この⑤は石川教授の意見がアメリカのカタログ通販の成功との比較から発想しているからであり、日本の市場だけでも充分大きいと考えられる現在では、的を射ていない指摘だと思います。
次回は、商材別に見た企業方針や成功例を中心にお話しします。
今、街の商店街には空き店舗が目立ち、百貨店やスーパーも苦戦を続ける中で、売上げを伸ばしている通信販売がますます注目されています。
過去を振り返れば、日本に通信販売は育たないとか、通信販売はインチキ商売と言われた時代もありました。しかし、実は明治の昔からきちんとした商売をして成功していた会社はあったのです。
そこで、日本における通信販売の成り立ちから、第二次世界大戦後のアメリカ型通販システムの流入、そしてここ30年くらいの単品通販の著しい成長を総括し、成功を勝ち取る方策とは何かを探りましょう。
成功した企業に共通する考え方を見つけたり、一時は栄華を極めた会社がどうして衰退していったのかを見つめ直すことは、これから通販企業を目指す方、そして今まさに立ち上げようとしている方のお役に必ず立つことと思います。
■通信と物流が通販の基
歴史を眺めてみると、イギリスでもアメリカでも郵便制度が整って情報や品物を届けることができるようになると通信販売が生まれています。それは日本においても同様でした。
つまり、情報の伝達と物流システムが通信販売成立のための必須インフラなのですから、情報伝達の方法がテレビやインターネットに変わったり、物流の選択肢にメール便が加われば通信販売のシステムや形態も変化します。この変化を的確に捉えて活用した会社が成功するのかもしれません。
■明治の種苗通販
日本の通販は、明治の初期に欧米視察団の一員であった農学博士・津田仙(津田塾大学創始者の津田梅子の父)によって始められました。
米国の発達した農業をみて、農業革命の意欲に燃えていた津田仙博士は、麻布に農業講習所「学農社」を開講。同時に、広く農業知識を普及するために「農業雑誌」を創刊しました。そして、1876年(明治9年)発行の8号に、郵便による申し込みを受けて商品を送付する旨の「稟告」を掲載。これが種苗通販の始まりです。最初は「米国良種の玉蜀黍(1袋十銭)」を販売し、前金2,000円の売上げ。これが学校経営の大きな財源となりました。
その後、種苗通販は隆盛を迎えます。米ヘンダーソン社やバービー社(現存しています)などの外国カタログを直訳し、国産種子も加えたみすぼらしいカタログではありましたが、村々へと巡回され、「希有の珍種のごとく貴ばれて、甲より乙、乙より丙へと村中に引張りまわされ」大きな利潤を上げたそうです。
明治20年代の黄金期には、カタログの発行部数に対して注文数は5~6倍というデータもあります。いかに農民が新しい種苗苗木に深い関心を持ち、相競って購入したかがうかがえます。
しかし、こうして栄えた種苗通販は、相手を出し抜くことに専念する企業間競争が価格競争となってしまい、その結果、粗悪な商品を売る悪質な業者を出現させました。そして、そのことが顧客たちに不信感を持たれ、衰退への道をたどる羽目になってしまいました。
■総合カタログも登場
日清戦争後の1899年(明治32年)には高島屋、三越などの百貨店も種苗通販に参入。さらに新聞社、雑誌社なども加わりました。さらに、日本最初の通販専業企業の東京用達合資会社が誕生。20世紀の初頭には、アメリカで成功していたシアーズ・ローバックやモンゴメリー・ワードのような総合カタログを用いて、種苗だけでなく舶来雑貨などの通販も開始。売上げを伸ばしました。
明治37年1月の「商業界」誌上で三井呉服店理事の高橋義雄は、「覚悟せよ」という論文を掲載。東京の百貨店が地方商圏を掌握に収める旨の論旨を展開するほど、通販は活況を呈していました。
1910年に通信販売売上高日本一になった三越では、通販を戦略部門の一つとして位置づけており、国内だけでなく、台湾、朝鮮、その他の外国までをカバーしました。
三越が最初に出したカタログ「花衣」は、総ページ数365の豪華な冊子で、尾崎紅葉の小説なども掲載。その後、「夏衣」「春模様」「夏模様」を経て「時好」というカタログに行き着きますが、これには小説の他に流行情報なども掲載し、読む雑誌としても充実した内容でした。そしてモデルには、有名人令嬢や芸妓を用いていました。
しかし、当時の百貨店系の通販は、基本的には外商部門を拡大させたと考えた方が正しいでしょう。店舗の販売エリア外にあり、外商担当者が足を運ぶにも遠すぎる地方の資産家に、百貨店のブランドで物を販売するためのものだったと考えるのが正しい評価です。
このようにして、カタログ通販は効果的に機能しましたが、その背景には格安でターゲットをセグメントしてポスティングしてくれる「広告郵便制度」の存在がありました。これは郵便配達員がカタログに掲載されている商品に興味がありそうな家庭を選んでポスティングしてくれる制度で、リストの整備されていない時代には大きな効果を発揮しました。
資料によると、当時のリストは1件1円と大変高価だったのですが、この「広告郵便」は5~12銭でしたから、ダイレクトマーケティングが容易にできたそうです。大正14年に手間がかかるとして廃止されてしまったこの制度ですが、今後どこかの宅配便会社が復活させてくれるかも知れません。
しかし、これら明治期の通販も短命に終わってしまいました。そして、大正時代に入ると通販会社はバタバタ倒産していきました。その理由は、大恐慌に加えて、種苗通販と同様に悪徳商法の横行と顧客リストの重複、そして商品の重複だったのです。
次回は、成功者たちの通販事業心得や当時の通販への視線についてお話しします。