【7月7日更新】
1990年代の通販事情
通信販売に限らず、日本の1980年代から90年代を語るとなると、バブル経済は避けて通れません。そこで、バブル経済とはナンだったのか。出現の原因から崩壊までのシナリオを考察してから、当時の通販事情に入りたいと思います。
■バブル経済の出現と崩壊
バブル経済は、過去も現在も世界のいたる所に出現していますが、日本の1980年代中~末頃に現れたものは、歴然とした原因がありました。
1980年代前半、日本は素早く第2次オイルショックから抜け出すことができましたが、欧米諸国特に米国は激しいインフレで、それを収束させるために連邦準備制度理事会は厳しい金融引き締めを採用しました。つまり、極端に公定歩合を高くしたのです。
これがドル高円安を招き、それまでも問題視されていた貿易不均衡をさらに拡大させました。日本の対米貿易黒字は膨大な額になり、米国をはじめ欧米各国は日本に対して、輸入の緩和、内需拡大、規制緩和などを強く要求しました。
そこで当時の中曽根内閣は、土地・建設規制緩和や大規模公共事業、不動産開発などへの政策支援をするとともに、証券取引法の改正、上場基準の緩和なども行いました。
こうした政策によって日本の株価や地価が上昇し始めていた1985年、ニューヨークのプラザホテルでG5が行われ、米国はドル安になるように英国、ドイツ、フランス、日本に依頼。この4ヶ国は同意して協調介入しました。
このプラザ合意の結果、85年まで1ドル240円前後で推移していた為替レートは、87年には1ドル120円程度という凄まじいスピードで円高が進みことになりました。
当然、日本は輸出産業を中心に不況に陥りました。そこで製造業は、この状況を脱するために売上げを国内に移したり、国内で生産していたものを現地生産に切り替えたり、部品を海外から調達するようになったのです。
プラザ合意に基づいた協調介入以降、円は政府日銀の予想以上に高騰し、国内経済が急速に悪化していったため、日銀は1985年~87年にかけて5回も公定歩合を引き下げました。
すると、預金金利も下がりますが、借りる場合の金利も下がります。そこで、金利が安いうちに住宅ローンを組もうと考える人や借金しようとする企業が増え、世の中に出回る金融量が増えました。
そして、通常日銀は、金融量が増えると公定歩合を上げて景気の過熱を抑えるものなのですが、当時はそれをしませんでした。その理由はさらなる円高を回避したいと、政府日銀が考えたからだろう思われます。
日本では昔から「限りある土地の値段は上がることはあっても下がることはない」と考える土地神話がありました。そこで、借り入れることで資金に余裕のできた企業や個人は土地に、そして株式に資金をつぎ込んでいきました。
土地などの売買で大儲けする企業が出てくると、中小企業も便乗して利益を得ようとしました。80年代終わり頃には、多くの企業がこうした財テクに手を染め、地価や株価が異常な値上がりを続けてしまったため、1990年3月、遂に当時の大蔵省が金融機関に対して「不動産融資総量規制」を出しました。つまり、不動産取得のために貸し出せる金融量の総額を決め、それ以上は貸せないようにしたわけです。
この不動産融資総量規制によって、買うための借金ができなくなったのですから、不動産の価格上昇は止まりました。しかし、持ち主にしてみれば、売れなければ購入するためにした借金やその利息が自分の首を絞めていきますから、みんながとにかく急いで売りたいと考えました。
元々は期待だけで高騰した地価でしたから、下がり出すと一気に下落します。行き過ぎた不動産価格の高騰を沈静化させる目的だった政策は、想定以上に急激な景気後退の引き金になってしまったのです。これがバブルの崩壊でした。
その後は、失われた10年に呼ばれるように、1990年代の平均経済成長率は1.4%に低下しました。また、金融の機能不全、金融不安も生まれました。そして、企業がリストラ姿勢を強める中で雇用不安が広がり、将来への不安が高まりました。そのため、人々の貯蓄性向が高まり、買い控え行動が進んだと考えられます。
■1990年代のトピックス
'90年代前半の主な通販参入企業は、'91年のジャパネットたかた。'92 年のヴァーナル、やずや、サンマイクロシステムズ、マルハチ、山田養蜂場。'93年のアスクル、メディアプライス。'94年のピーチジョン、日本ランズエンド、エディーバウワージャパン。'95年のコーセー、プライムなど。
通販業界の話題としては、通信販売への酒類小売免許基準が決まりました。千趣会が東証・大証に上場、セシールが店頭公開銘柄に指定、シムリーが大証2部に上場、ベルーナが株式を店頭公開。不況の中、通販は健闘しています。
高島屋がWOWOWで通販番組放映。ニッセンとセシールがパソコン通信で商品を販売。そして、郵政省が電気通信事業における個人情報のガイドラインを制定。PL法施行も施行されました。
なおこの頃、ヤマト運輸が第三種郵便物の宅配を開始。ムトウが業界初のコンビニでの代金回収をスタートさせています。
社会状況は、国際的には東西ドイツ統一、湾岸戦争勃発。国内に目を向けると、自民党政権が倒れて細川政権樹立。阪神大震災発生。オウム真理教地下鉄サリン事件など、事件や変化の激しい時期でした。また、リサイクル法が施行されました。
'90年代後半の参入企業は、'96年に大塚商会、チューリッヒ・インシュアランス、ジュピター・ショップチャンネル、日本テレビエンタープライズ。'97年にミスミ、アサヒ緑健。'98年にこだわり王国、セコム。'99年にすこやか工房など。80年代の末頃からみられるようになったことですが、相次いで健康食品を取扱う会社が参入してきています。
業界の動向としては、大蔵省が自動車保険の通販を解禁し、千趣会やムトウがインターネット事業に参入。また、ヤマト運輸が宅急便に時間指定を導入しました。
社会状況は、パーフェクトTVが開局するなどの新しい展開はありましたが、山一証券が経営破綻、いくつかの生命保険会社が破綻、長銀、日債銀も経営破綻。これまで考えもしなかった上場企業の倒産が続く事態になりました。
これらのトピックスから推測すると、通信販売業が社会的に認知され、経済立て直しの牽引役として期待されたことが感じられます。これまでの規制+規制でがんじがらめにするやり方から一変して、さまざまな業種が通販参入しやすいようにしています。
そして、テレビショッピングがいよいよ本格化してきました。また、パソコンが浸透してきたこと。さらに、消費生活からの脱却を余儀なくされて健康を志向する生活への転換が進んでいることなども窺えます。
■通信販売事情
1980年代後半には、それまでゼネラルカタログが主流だった百貨店系の通販も、グルメやシニア層を対象にしたスペシャルカタログを発行するようになりました。このように日本の通販は、総合通販から特定の商品ラインに特化した通販が主力になり始めていたのです。
'89年の決算では通販上位30社の平均で、総合通販の伸び率11%に対して、こうした特定商品ラインの通販は24%の伸び。通販業界の牽引役になってきました。
そして、1990年代に入ると、バブルの崩壊によって大手総合通販に翳りが見え始め、'90年代半ばには他の小売業との競合などから低迷するようになりました。消費者は、どこでも買える商品だったら、見て、触って、価格を比較検討して、決めようと考えたのです。
使用媒体もDM・カタログなどの印刷物主体から、テレビなどの映像媒体へ、そしてネット通販も夜明けを迎えようとしていました。ただし、'90年代前半はまだパソコン通信で、データ転送スピードが話にならないほど遅かったため、実用には不向き。インターネット、それもブロードバンドが浸透してから、ようやく本格化するようになりました。
日本のブロードバンド化が遅れたのは、やっぱり既得権益を守ることだけに専心したNTTの責任。半官半民企業のインフラは、ここでもインターネットの普及を遅らせるという大きな悪影響をもたらしたのです。
さて、いよいよ1994年6月にDMG(ダイレクトマーケティンググループ)が誕生。総合通販に取って代わり、単品通販が主役になる時代がやってきました。
次回からは「単品通販」と「ネット通販」についての話になります。
【6月6日更新】
■'70年代、'80年代の通販模様-後編
●バブル経済出現
1980年代を顧みてみましょう。'83年に東京ディズニーランドがオープンし、パソコンの普及は100万台を突破しました。そして、'85年のプラザ合意に伴う円高と低金利政策がバブル経済を生みだしました。投資がブームになり、'83年に比べて'89年には株価は4倍、地価は'86、'87年の2年間で3倍になったのです。
日本の土地すべてを売ればアメリカ全土が買えるといわれたのはこの頃で、ロックフェラー・ビルなどアメリカを象徴するような不動産を日本企業が買い漁ったものでした。一方庶民の間では、住宅の取得は夢のまた夢となり、終の棲家をあきらめて1千円以上もする自動車を買うような、刹那的な一点豪華主義も出現しました。
繁華街には人があふれ、終電に乗り遅れると2,3時間のタクシー待ちはザラという、今では考えられない異常な時代。老いも若きも浮かれていたわけですが、そのお金はどこから湧いてきたのでしょう?
●総合通販が通販市場の拡大を牽引
日本の通販が目覚ましく成長したのは、この1980年代です。社団法人日本通信販売協会の調べによると、1983年に6,860億円の売上高だったのが、バブル経済を背景に市場規模を拡大し、1989年には1兆4,000億円に跳ね上がっています。
千趣会、ニッセン、セシールといった専業通販企業が拡大し、下着など部分的な商材に限られてはいましたが、日用品の購入を量販店から通販へ移行する消費者も出てきました。
こうした企業は、アパレル、雑貨といった量販店と同じ商品ジャンルだったので総合通販企業と呼ばれ、通販市場拡大の牽引役になりました。
一方、一般にはなかなか売っていない、特化した商品を扱う通販企業もありました。日本通信教育連盟、エス・ジ・シー、日本ヘルスメーター(現カタログハウス)などは、通信教育で培ったノウハウを基に物販を開始。日本ヘルスメーターはルームランナーという大ヒット商品を作り出しています。
なお、通販企業がマスメディアを駆使して宣伝活動を行ったのは、このルームランナーが最初。いわば日陰の存在だった通信販売が、陽の当たる場所に大手を振って出てこられるようになったのです。
●日本独特の組織販売手法
この時代、千趣会とムトウは、頒布会や組織販売で顧客を組織的に取り込むという、日本独特の販売手法で急成長しました。
千趣会は、職場単位あるいは学校内のグループに定期的に配送する直販システムをとりました。そのスタートは1955年の「こけし」で、この顧客が10万人を越えたことから、料理カード付き月刊誌「クック」をこの頒布会システムに乗せました。
テレビとのタイアップなどもあって会員は増加し、その後ぬいぐるみ、シームレス・ストッキング、旅の本、レコードなど様々な商品が供給されました。
商品は基本的にシリーズになっており、一度申し込むと毎月自動的に届くシステム。これにより、仕入れや生産コストを低減させることができ、一括発送することで物流コストも抑えられました。さらに確かな需要予測ができることから、過剰な生産をしないですんだのです。
一方のムトウは、戦前は武藤洋裁所という会社で、洋裁の仕立てを地元の婦人会に依頼したことから婦人会とのつながりができました。1954年にカタログ販売に転換したときも婦人会から注文が殺到し、他の地域の婦人会へと広がっていきました。そこで、現物見本に1枚のカタログを付けて、婦人会で注文を取りまとめてもらったのが婦人会直販の始まりです。
1967年には婦人会に加えて幼稚園組織を利用した販売も開始。クラリーノのランドセルが大ヒットし、シェア日本一になりました。
こうした地域や職域の組織を利用した販売方法は多くの成功例を生んでいます。通信販売というより訪問販売に近いやり方ですが、町内会や自治会、さらには職場の組合などを活用して、国語辞典や暮らしのハウツウ本を販売したり、石鹸や化粧品を販売した企業もありました。
●通信販売成長のファクター
まず、通販業の市場拡大を可能にした要因の一つに、1976年のヤマトの宅急便から始まった宅配便の発展があります。
何度も何度もしつこく言いますが、日本の郵便料金は異常に高いし、高かったのです。小包送料を加えると納得してもらえる金額ではなくなってしまいますから、デパートなど自社で配送するシステムを持っているところはアドバンテージがあり、成功していった例が多いのです。
しかし、バブルの時代になり、家でじっとしているより、外に出て働いて収入を得た方が、ずっと豊かな生活ができるようになると、共働きが増え、人々は時間の有効活用を図るようになりました。つまり、いろんなスーパーを回ってバーゲンの食材を探しているのをやめ、その時間を労働に費やしてより多くの収入を得ることができれば、ある程度の送料は我慢できるのです。アメリカでも通信販売は1980年代に再び成長していますが、その理由もやはり共働きの増加でした。
この1980年代の特徴は、ゼネラルカタログの成熟と情報性を重視したスペシャリティ型通販の躍進。そして参入企業の多様化です。海外からも洒落た楽しい商材が多かったシャーパーイメージやドイツのオットーなどが'86年に日本進出を果たしています。
●1980年代の通販トピックス
1980年代に通信販売に参入した主な企業と当時のヒット商品などを検証してみます。
実に様々な業種の企業が参入しています。前半を見ても、'80年に小学館プロダクション、近鉄百貨店。'81年にはファンケル、日比谷花壇。'82年にアメリカンホーム保険。'83年にはエイボンプロダクツ、ベルーナ、シャディ、日通商事。'84年は学研、ヒサゴ、ワコール。'85年にはテレビ朝日リビング、ふくやなどが参入しました。
やせる食品の通販が始まり、アンゴラ製の健康肌着、金貨、ヘンケル包丁、家庭用真空パック器、作務衣などが注目されました。
'80年代後半は、'86年にトキノ(現ソノコ)、やまやコミュニケーションズ、フットワークインターナショナル。'87年には丸井、かねふく、住商オットー、エプソンオーエーサプライ、BMGファンハウス。'88年にポーラ化粧品、ポニーキャニオン、全日空商事、ホンダダイレクトマーケティング。'89年には、わかさ生活、健康家族が登場してきました。やずやの参入は'92年ですから、まだ姿を見せていません。
'86年にはセシールが売上高1000億円を突破、ムトウが東証1部に上場しました。'87年には通販業界の売上げが1兆円を突破し、'88年にはニッセンが大証2部に上場しています。
なお、'83年に通商産業省(現在の経済産業省)の指導によって通販業界の健全な発展を図るために日本通信販売協会が設立されました。翌年には郵政省の指導によって日本ダイレクトメール協会も発足。'86年にはこの2団体の他、ダイレクトマーケティング協会や米国商工会議所が団結してDM発送のコスト削減に取り組み、広告郵便物の割引制度(バルクメール制度)を確立させています。
【5月5日更新】
■'70年代、'80年代の通販模様-前編
●はじめに
今回1970年代~1980年代を総括する予定だったのですが、この20年間は社会環境的にも通販業界的にも出来事が多すぎて、そうそう簡単な話ではありません。
そこで、'71~'80年、'81~'90年と単純に分割するのではなく、社会情勢や市場の様子を含めながら、前後編2回に渡ってフレキシブルに考察していきたいと思います。
●沸騰する日本経済
敗戦から15年目に入り、少しずつ生活に潤いが出てきた'60年、池田総理による所得倍増計画が発表されました。
当時の社会状況を覗いてみると、'64年:東海道新幹線開業、東京オリンピック開催、海外旅行解禁。'67年:自動車所持台数が1千万台を突破。'69年:GNPが世界第2位に躍進。'70年:大阪万国博覧会が開催されました。
北京オリンピック開催、今月からの上海万国博覧会開催と、現在の中国は当時の日本に非常によく似ています。今、私たちが羨望の目で見つめる中国のような、破竹の勢いの経済情勢だったのです。
そして、マスメディアを活用した大量生産・大量販売が主流になりました。'68年にはついにスーパーマーケットの売上げが百貨店を抜きました。時代はまさに右肩上がり。日本中が好景気に沸き返っているような雰囲気でした。
また、1970年代では、'72年:沖縄本土復帰が実現、日本列島改造論が話題になりました。'73年:資本の自由化。'77年:大卒男子初任給が10万円を突破。また、成田空港が開港したのは'78年のことです。いよいよ戦後は遠くなりました。
●新しい通販商品ジャンル登場
'64年、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックを成功させて、生活に余裕が生まれると人々は文化的なものを求めるようになりました。同年4月28日には平凡出版(現マガジンハウス)から平凡パンチが発刊され、若者を中心に圧倒的な支持を受けました。また、アメリカ東部の大学連合アイビーリーグの学生たちのファッション「アイビー」を取り入れたブランド「VAN」は若者たちの心を捉えて離しませんでした。
当時の通信販売には、レコード、音響機器、楽器といったアメリカ的な洗練された生活をイメージさせる商品が続々と登場。また、一般の商店では売っていない、体格改善器具や美容器具も開発されました。
そんな中で、'69年に日本リーダーズダイジェスト(JRD)が世界大地球儀を大ヒットさせました。この地球儀のヒットは画期的なことでした。それは、「店舗で販売されているのに、必要に迫られていないので買っていない」あるいは「趣味性、専門性が高い」という通販商材の新しいジャンルが発見されたからです。広告によって消費者自身も気づいていなかったニーズを発掘し、実用以上に専門性の高いものや贅沢品への欲求を生み出させたのです。
このことは1970年代のヒット商品を見るとよくわかります。'72年の印鑑、'73年の双眼鏡、'74年の複製絵画、'75年のミシン、'77年の和包丁など、商品としての機能だけでなく他人と違うちょっといいもの、自慢できるグッズを持つ喜びという要素が入ってきたのです。'60年代後半以降、いろいろな産業からの通販参入が増えたことも、こうした傾向に拍車をかけたものと考えられます。
●大手企業の信用力がカタログ通販を成立させた
当時は通販といえば、ダイレクトメールやカタログが主流。お目当てのものを買うついでに目についたものも買ってしまう、ついで買いという行動もありますから、大きな売上げを期待できるのはカタログでした。
百貨店系では'51年に高島屋の通販が復活し、'63年には小田急が、'67年には京王百貨店が通信販売をスタートさせました。また、メーカー系としては'64年にマルマンが「動くデパート」として日本初の本格的ゼネラルカタログを出しました。
しかし、通販カタログが広く知られるようになったのは、'72年に西武とシアーズ・ローバックが提携し、米国流のゼネラルカタログを出してから。その後、'74年にフジサンケイグループが「ディノス」を、翌年には高島屋が「くらしのパスポートニュース」を創刊。
信用力のある企業が通信販売に乗り出したことで、それまで信用性に乏しかった通信販売という販売方法に一般消費者の目を向けさせることができました。そういう意味でも、カタログ通販市場の形成は、この2誌によるところが大きかったと言えます。
●1970年代の通販トピックス
1970年代に通信販売に参入した主な企業と当時のヒット商品などを検証してみます。
'70年代の参入企業は、前半だけを見ても、'70年:伊勢丹、ニッセン、'71年:ソニーファミリークラブ、郵貯サービス、'72年:フジサンケイリビングサービス、ビクターファミリークラブ、フランクリンミント、'73年:東急百貨店、三越、阪急百貨店、文化放送商事、松坂屋、'74年:フレンドリー、上新電機、'75年:セシール、東海文化事業、名鉄百貨店、日本文化センターなど百花繚乱です。
'71年にはテレビショッピングがスタートし、'73年にはラジオショッピングも始まりました。レコードの通販が人気を博していますが、この時期特筆されることは、百貨店の相次ぐ参入と放送事業者の参入です。
'70年以前から参入していた高島屋、西武の他に、この6年間に6社の百貨店が通販を開始。そして、前項でも述べたように、高島屋の「くらしのパスポートニュース」やフジサンケイグループの「ディノス」によって、通販カタログは消費者の中にしっかりと定着し、バブル経済の崩壊までは通信販売成長の牽引役を果たしました。
'70年代の後半では、'76年:千趣会、ニッポン放送プロジェクト、総通、カタログハウス、'77年:ベスト電器、'78年:シムリー、サントリーショッピングクラブ、アメリカンライフインシュアランス、'79年:JAFサービス、日航商事などが参入。
目立った商品としては、'76年にテレビ媒体をフル活用したカタログハウスのルームランナーが爆発的なヒットになりました。カタログハウスはその後も健康マット・ヘルスウェーブ、超音波美顔器エレンスパック、帆船模型カティサークなどのヒットを連発。その他、ソニーファミリークラブの輸入料理器具や圧力鍋、エヌ・ジー・シーの掛け軸や冷風機なども話題を集めました。
商品ジャンル的には、昔からの通販の王道ともいえる「一般の商店で売っていない商品」と前述の「ちょっと自慢できる商品」が混在してヒットしていました。
参入企業には、家電量販店の姿も見えますし、洋酒メーカー、航空会社、放送事業者、保険会社など、様々な産業からの参入が目立ちます。通信販売業界の成長が目立ったことから、新しい収益事業として期待されたのでしょう。
なお、頒布会方式で独自の通販を展開する千趣会もこの時期の参入。その方式などについては次回ご説明します。
●無店舗販売への法的規制
しかし、1970年代は、テレビ媒体の登場や市場の拡大によりトラブルも増加しました。
'74年には、テレビ通販の二重価格表示について公正取引委員会が改善の要望を出し、産業構造審議会の「マルチ商法・通信販売・訪問販売等の規制の方向について」の答申では、広告表示と契約履行の問題が取りざたされて、'76年に「訪問販売等に関する法律」(現特定商取引法)が制定されました。
この法律によって通信販売は法的に位置づけられ、広告への表示義務事項等の規制が行われることになりました。景品表示法も'72年に改正され、景品の制限の面から通販広告の表示規制が定められました。
「訪問販売等に関する法律」は、2001年6月に「特定商取引に関する法律」と名称を変え、インターネット通販も含めた通信販売をメインに据えた法律になりましたが、'76年当時はマルチ商法や訪問販売と同列の扱い。法律の名前から考えても訪問販売の方を向いていたことが想像できます。無店舗販売ということで同列に見なしたのでしょうが、これらの商売と通信販売を一緒くたにし、さらに景表法など厳し過ぎるほどの規定を行ったことで、去って行かざるを得なかった企業も多くあったのです。
【4月7日更新】
■'50年代、'60年代の通販模様
●日本に通販が育たなかった理由
アメリカでの通販は、都会を離れて住む農民たちに商品を安く供給することで成長しました。しかし、日本ではこのような商売はできませんでした。なぜなら通信コストつまり郵便料金が高いからです。米国では都市部だけでなく農村でも無料郵便制度や小包制度が敷かれていたため、ディスカウント価格の通信販売が成立したのです。
何度も言いますが、日本の公営インフラ使用料は高額で、いつもいつも新しい産業の芽生えを妨害してきました。郵便料金だけでなく、旧電電公社の電話料金と保護施策は、パソコン通信やインターネットの普及を著しく阻害しました。公営ということは国民の税金で作ったものなのに、この使用料金の高さがアメリカや韓国のネット社会との国際格差を作ってしまった最大の要因です。
●復興の兆しは通信教育から
さて、戦後の日本の通販は、まず通信教育が先導しました。勤勉な日本国民は、第二次世界大戦以前からの、息苦しいほど統制された社会や教育から解放され、復活の足がかりとして様々な学習に意欲を燃やしたのです。
'54年に東京高等人形学院(後の日本通信教育連盟→日本文化センター)と東洋ペン字学会(後の総合通信教育センター)が事業を開始し、'65年には東京音楽アカデミー、東京子ども教育センター(現在のカタログハウスの親会社)が設立されています。
●アメリカへの憧れ
また、正しい報道ができるようになると、欧米の豊かな文化や自由な生活が明らかになりました。また、駐留するアメリカ兵たちの明るい国民性を見たり、テレビ放映されたアメリカのホームドラマで、その豊かな生活を見るにつけ、日本人はアメリカへの憧れを持つようになりました。前回ご紹介したリーダーズダイジェスト(JRD)は顕著な例ですが、憧れは容姿にまで及んで隆鼻器が人気を集めました。また、小さく華奢な体格にコンプレックスを感じ、身長を伸ばす器具が話題になったり、'67年には逞しい肉体を作り出すブルワーカーが日本メールオーダーから発売され、ロングセラーになりました。
●文化を求める余裕ができた
生活に余裕が生まれてくると、人々は文化的なものを求めるようになりました。JRDがレコード通販で輝かしい成功を収めたことから、'62年には日本メールオーダーがコンサートホール・ソサエティを設立。'64年にはワールド・ファミリー、'66年には現在のコロムビアファミリークラブも立ち上がりました。さらに、'69年には東芝EMI、'71年にはソニーファミリークラブも後を追っています。
また、こうした洋楽ブームを的確に捉えて、'67、'68年に二光が音響機器やギター、トランペットをヒットさせました。さらに、'75年にはエレキギター、アンプ、ステレオ等を販売し、大学生や高校生を中心にしたフォークやロックのバンドブームを巻き起こしました。
●海外企業も続々上陸
この時期、海外企業も続々進出してきました。'72年には米国のフランクリン・ミントコーポレーションが上陸し、メープル金貨や工芸品などを販売しています。その後も様々な企業が日本に進出してきましたが、'93年には米国のアパレルメーカー、ランズエンドが日本法人を設立して通販を開始しました。このランズエンドは、本国で行っていたギャランティ・ピリオド(いついかなる時にどんな理由でも交換可能なシステム)を持ち込んで、日本の通販各社は脅威を感じたものですが、意外なほど現在も低迷しています。
●成功したのは合弁企業
外国企業が日本で成功した例は、ほとんどが日本企業との合弁です。'71年にCBSが合弁でソニーファミリークラブをスタートさせ、'87年には住友商事とドイツのオットー・フェルザンド社が住商オットーを設立しました。
また、出版社系では、JRDの成功を見て'69年にTBSブリタニカが誕生。'75年にブリタニカ国際大百科事典を刊行し、'86年にはニューズウィーク日本版を発刊しています。なお、TBSブリタニカは、JRDの失敗に学び、長期購読者への優遇を、価格も含めて実施しました。
●通販参入企業と社会情勢
戦後の通信販売参入企業と社会状況を検証してみましょう。
終戦の翌年'46年にJRDが日本進出を果たし、'47年には日本国憲法が施行されました。そして、その翌年'48年には日本百貨店協会が設立されています。また、'50年には主婦の友が復活。その年に朝鮮戦争が勃発して、日本に特需景気をもたらしました。
'51年には高島屋の通販が復活。日本生活協同組合連合会が参入した'52年には、JRD社がレコードの通販を開始しました。'53年には大丸ホームショッピングが復活。そして、テレビの本放映が開始されました。
'54年にはムトウ、'55年には日本通信教育連盟が参入し、千趣会が頒布会を開始しました。東京タワーの完成で湧く'59年には再春館製薬所が参入してリキゲンを販売。'60年には所得倍増計画が発表され、カラーテレビ放送も開始されました。
'63年には西武百貨店、二光が通販に参入。東京オリンピックが開催された'64年には、ダイナースクラブのカード通販がスタートしました。
その後、'66年にはコロムビアファミリークラブ、サンレイ・ヤマコーが参入。'69年には東芝EMI、日経BP、ベネッセコーポレーション、日本フローラルアート等が通販に参入しました。なお、日本メールオーダーのブルワーカー、二光の音響機器、ギター、トランペットなどのヒット商品が出ています。
しかし、終戦直後の超インフレによるところも多々ありますが、戦後25年の間に'47年、'51年、'66年と郵便料金は3回値上げされ、さらに'72年、'76年、'81年、'93年と続けざまに上がっていきました。そのうえ、新たな郵便番号制定によって顧客データの改正が必要になったり、景表法が施行されるなど、通販を取り巻く環境は、相変わらず容易いものではありませんでした。
次回は1970年代以降の通信販売について見ていきます。
●リーダーズダイジェストの栄光
リーダーズダイジェストは、終戦の年1945年に日本に進出してきました。「日本版リーダーズダイジェスト」はその名の通り、話題の書籍や雑誌記事などをダイジェストして掲載した月刊誌で、文化に飢えていた戦後の人たちの圧倒的な支持を受けました。
この「日本版リーダーズダイジェスト」は、発刊当初は100%書店で販売していましたが、徐々に定期購読者を募って直接販売するようになり、最終的には9割以上が直接読者の元に届けられました。
定期購読者への直接販売は、読者数がはっきりわかっているという大きなメリットがあります。発行部数が確定できるので、無駄な廃棄分がなくなります。また、しっかりとした根拠のある読者数は、広告クライアント獲得の強力な支援にもなりました。さらに、定期購読料を前金でもらえるため、経営が安定するという効果もありました。
リーダーズダイジェスト社では、定期購読者を獲得するために、毎年新年には斬新なフックやギミックといった仕掛を備えたダイレクトメールを400万部もばらまき、定期読者を募っていきました。これは、当時の郵政省や印刷所を巻き込んだ、一大イベントだったといいます。
そして、リーダーズダイジェストが行った雑誌への商品広告掲載や同じ顧客に何度も利用してもらうリピート販売の手法、そして景品や特典で購入を促す技術は、その後の日本の通信販売に大きな影響と功績を残しています。
●効果的なダイレクトメールの制作手法
成功するダイレクトメールに必要なものは、リスト、オファー(特典)、クリエイティブです。成功の鍵は、ベネフィットを明確に提示し、心に響くオファーを付け、開けてみようと思うドアオープナーを入れ、簡単にゴミ箱に捨てられないように公的な雰囲気にして、パーソナルな呼びかけをすることと言われています。
・封筒の中にボールペンなどの小物を入れて開封率を高める(オープナー)
・外封筒(OE)に気を引くコピーを1~2行入れる
・お客様の名前を印字して私信のように感じさせる
・ベネフィットを強調して欲求を起こさせる
・特典シールやスクラッチなどのギミックを駆使してアクションを促す
・特典締切期日を設定するなどして上手に念押しをする
こういった手法の具体例は、詳しく「タイムマシーン」に掲載されていますので、ぜひお読みください。これらは、当時アメリカなどで続々と開発されていた、ダイレクトマーケティングの成功事例も取り入れながら作られていたのです。
ダイレクトマーケティングの神様とも言われるレスター・ワンダーマンは、顧客の好きな言葉は「無料」「新しい」であり、先に送りつけて「気に入ったら買ってください」というセンド・ノー・マネーというオファーが効果的であることを見つけました。また、購入意欲を促進させるテコの部分はオファー、支払い方法や期日、メディアの利用方法、製品やサービスの提供方法など、いろいろあると言っています。さらに、断絶の時代で知られるP・F・ドラッカーは、最も優れた広告は、見た人すべてが自分のために書かれたと感じる広告であると述べています。
●リーダーズダイジェストの挫折
さて、出版社であるリーダーズダイジェストが大きく変わったのは、1960年のレコード販売からです。定期購読者名簿を利用したこのレコード販売は大ヒットになりました。これに気をよくした同社は、英語教材やラジオ、ステレオ、リトグラフなどを立て続けに販売し、1969年には世界大地球儀をヒットさせるなど、ほとんど通信販売の会社となり、出版活動は軽視されていきました。
その後、リーダーズダイジェストの企画開発商品は、仏像、キャンプセット、スパイスセット、香炉など次から次へと生まれましたが、徐々に出版社としての文化的な側面がなくなっていきました。どこの会社が作ってもいいような商品を、売れそうだから企画するのです。しかし、それは当然のことでした。リーダーズダイジェスト社は、すでに通販のための会社だったのですから。
ただし、通販会社としては完全なプロフェッショナルではありませんでした。品質管理が不徹底だったため欠陥商品が多く、度々消費者センターに苦情が持ち込まれました。
国内でソニーや松下、日立などが熾烈なラジオ開発・販売競争をしているときに、リーダーズダイジェストは香港製のラジオを売っていたのです。これでは、お客様を満足させられるわけはありません。
また、最初は喜ばれていたダイレクトメールの仕掛けも、だんだんと飽きられてきました。陳腐な景品で読者を釣って、適当な商品を売りつけるのが「リーダイ商法」と言われるようになりました。
だいたいが、ちょっとした仕掛けで、得をしたと感じる消費者を釣り上げる。それができるのが素晴らしいDM、大成功のダイレクトマーケティングと喜んでいたことが問題なのです。ダイレクトマーケティングは、もっと謙虚にお客様を大切にすべきものでした。レスター・ワンダーマンも、通販の目的は単に売ることではなく、顧客と長期に亘る親密な関係を築くことと言っているのです。
海外での通信販売促進の常套手段である豪華な懸賞や景品が、公正取引委員会の規制により、日本ではできなかったことも不運でした。
そして、前回も述べましたが、日本の郵便料金の高さは致命的でした。
当時、リーダーズダイジェスト社は年商の約3割を郵政省に納めていたといいます。1985年に支払った郵便料金は20億円で、日本で最大の郵便利用者でした。海外では大口利用者への割引制度が充実しているため、経営を圧迫する事態にはなりません。リーダーズダイジェスト社が支払った20億円も、アメリカと同率の郵便割引率があれば5億円で済んでいたそうです。
「リーダーズダイジェスト日本版」最後の編集長・塩谷紘氏の著書『「リーダイ」の死』によると、「リーダイ」崩壊の最終段階では、或るアメリカ人経営陣の介在や労働組合の問題もあったようです。
しかし、経営不安に至る読者数減少の最大の要因は、やはり顧客を満足させられなかったことでしょう。定期購読契約の初年度は半額ですが、2年目には定価になりますから、読者は価格が倍になったと感じます。こうした長く付き合っている顧客より一見さんの方が得をするという商売は、日本人の感覚には合いません。
そして、顧客が減少していったときに、日経マグロウヒル社から盗まれた読者リストを購入して使用するという事件が起きました。新規顧客ばかり狙わずに、自社の顧客へのCSをもっと考えていれば。そして顧客リストの大切さを把握し、顧客のライフスタイルを認識するように努め、新たなライフスタイルまでも提案していれば、リーダーズダイジェストの栄華はもっと続いていたのではないかと思うのです。
次回は1970年までの通信販売について見ていきます。
●戦前の通販事情
明治・大正と、日本の通信販売は、成功しそうな会社が出てくると粗悪品を売る詐欺まがいの業者が現れて信用を失ってしまうという負のループの中で喘ぎ、その傾向は昭和に入っても続いていました。多くの日本人は、一人ひとりの場合には親切で正直ですが、団体として行動すると倫理を欠くことがあるようです。最近の食品偽装なども根っこは同じなのかも知れません。
ですから戦前は、三越や高島屋など信頼されている有名百貨店の外商がエリアを拡大した形態での通販の他には、昭和6年に増進会出版社、昭和12年に西本貿易、昭和14年にエヌ・ジー・シーが参入した程度でした。少し歩けば商店がある日本では、日常使用する品物を買うのに通信販売は不向き。欲しいときにすぐ手に入らないし、商品を確認できない不安もあって、通信販売は必要とされなかったのです。
また、アメリカでは、1874年にシカゴでモンゴメリ・ワードが、1886年にはシアーズ・ローバックの前身であるR.W.シアーズ時計会社が創業し、事業を拡大してきましたが、これらの会社が行ったカタログ通販は、メーカーから直接現金で仕入れることで通常価格の平均40%ダウンを実現する薄利多売方式が基本。しかし、こうした販売形態は、日本では通信・運送コストが高いためにできませんでした。
実際、日本の高額な郵便制度は、通信販売の成長を阻害する大きな要因でした。高い郵便料金はDMによる顧客獲得を採算の合わないものにし、カタログ通販を圧迫しました。そして、世界各国と比較しても異常に高い日本の電話・通信料金は、通販とともにインターネットの普及も遅らせてしまったのでした。
さて、そのアメリカでも1920年代に入ると大型のショッピングセンターなどができ、大都市以外でも低価格で商品を購入できるようになりました。そこで、シアーズやモンゴメリも百貨店事業に参入。一時的には割賦販売制度などで成長しましたが、この有店舗への過剰な意識が裏目に出て、最終的に撤退及び倒産という結果になりました。
その原因は、本当は財産として大切にすべきだった顧客情報をないがしろにし、個々の顧客に向けたライフスタイル提案を怠ったためです。自らが顧客情報という非常に大きな経営資源を持っていたことに気づかなかったのです。
●戦後の通販-リーダイがやってきた
第二次世界大戦後、社会が安定するまでは通信販売の姿はありませんでした。終戦の翌年1946年では、わずかに健康機器の「中山式産業」、痔疾患薬の「ヒサヤ大黒堂」、そして戦前から続けている「タキイ種苗」が見られるだけでした。しかしこの年、その後の日本の通信販売に大きな影響を与える「日本語版リーダーズ・ダイジェスト」が発刊されたのです。
「リーダーズ・ダイジェスト」はその名の通り、話題になりそうな書籍の内容や雑誌記事などを短くダイジェストして掲載する月刊誌でした。長く暗い時代を終え、文化に飢えていた戦後の人たちに圧倒的な支持を受けました。特に異彩を放ったのがその販売方法。当初は100%書店で売っていたものを、結局的に予約購読者を募集して、次第に直接販売に切り替えていったのです。
また、1951年(昭和26年)には、高島屋の通販が復活。1952年には日本生活協同組合連合会ができ、1953年には大丸ホームショッピングが復活しました。さらに、1954年にはムトウ、1955年には日本通信教育連盟、千趣会など、現在に続く通信販売の大手が続々産声をあげましたが、やはりその後の通信販売業界に大きな影響を与えたのは、リーダーズダイジェスト。1960年のレコード通販を皮切りに続々と目を引く商材を登場させ、斬新なダイレクトメールを駆使して売りまくったのです。
●花開くダイレクトマーケティング
アメリカでは、戦前から通信販売は一定の業績を上げていましたが、戦後に入ってクラブ会員制(頒布会方式)が導入され、一気に売上げを伸ばそうとしていました。バラの苗を中心にした花の苗を届ける頒布会やブッククラブなども好調でしたが、もっとも人気があったのがレコードの頒布会(レコードクラブ)です。
こうした通販業界の売上げ増加が、ダイレクトメールや雑誌・新聞広告の制作技術を進化させました。通信販売はご存知の通りテストを行える販売方法です。スプリットラン・テストを繰り返して、最大の効果が得られるクリエイティブやオファー(特典)を開発することができました。
通販関連の広告代理店WRKを創業したレスター・ワンダーマン氏は、それまでセールスレター屋とかダイレクトメール屋と言われていた業界をダイレクト・マーケティング広告業として認知させる努力を展開していました。
ワンダーマン氏が開発し、効果をあげた広告制作上の事柄を列記すると以下の通り。ほとんどが現在も生きている教えです。
・ベネフィットを明確に伝えるヘッドライン
この商品を買うことで顧客が得られる喜びを的確に伝える。
・心に響くオファーを付ける
うれしい、お得と感じる特典を提供する。
・DMにはドアオープナーを入れる
何かが入っている封筒を開けずにゴミ箱に捨てる人はいない。
・単なるDMと思われない公的な雰囲気
一目で広告だとわかる体裁にしない。
・私だけのために思わせるデザイン
パーソナルな感じを出す。
「ああ、なるほど」と感じられたのではないでしょうか。今も効果的なDMの作り方として教えられていることが、この時代に生まれているのです。
さて、当初は雑誌の発行部数を効率的に決めるために始まったリーダーズダイジェストの定期購読者募集でしたが、1960年に購読者名簿を活用したレコード販売が大成功したことから、次々にこうしたアメリカの最新のダイレクトマーケティング技術を駆使したDMを作り、送り続けたのです。
次回はリーダーズダイジェトの栄光と挫折をお届けします。
■その他の成功例
明治・大正期に成功した通販は、種苗と時計とお茶だけではありません。その他にも工夫を凝らして成功した会社がありましたし、総合カタログも登場しました。このような事例をご紹介します。
【肉筆団扇地紙卸:島田整美堂】
団扇地紙印刷の世界で新興の島田整美堂は、従来の販売方法が老舗によってシェアを独占されていたため、通信販売に打って出ました。
初回は既存顧客に1,000通のDMを発送して600口の受注と大成功をおさめました。しかし、新規顧客にまで発送先を広げた第2回、第3回は大失敗。そこでその原因の調査してみました。すると、
・カタログ送付のタイミングが悪い(他社に発注した後にカタログが届く)
・通販は粗悪品であると中傷された
・価格が明記されているため競合他社がダンピングを仕掛ける
・カタログ発行元への不信感
などの理由が浮かび上がってきました。
この調査報告をもとに島田整美堂は、「まず少なくとも10年の後から利益を上げる企てで、それまで根気よく地盤を固めていかねばならぬ」と決心。カタログ数を3万部から2万部に減らすとともに、毎年変えていた発送先を固定し、見込み客を変更せずに送り続けることにしました。そして、3年目にも注文がこない場合はリストから外すことに決めました。
また、発行時期を繰り上げて注文しやすいよう工夫し、カタログにも改良を加えました。カタログは「肉筆」を強調したもので、キャッチコピーでは肉筆團扇地紙の特長を、
第一 最も高尚 最も優雅
第二 見本よりも優良の現品
第三 張上げて更によく見える
第四 價が非常に安い
第五 別註文の揮毫にも應ず
第六 迅速に間に合う
第七 信用のある團扇屋に扱ふ
としています。
そして、ハガキの倍サイズの石版4度刷り広告10万枚を、人口2万人以下の都市や町村の呉服商、酒造家、小間物屋、料理店などに限った広告郵便で発送。
冊子体のカタログ3万部は、人口2万以上の都市で上等の団扇を誂えるような商店等を商工会人名簿からピックアップしたリストに発送しました。その結果、注文数は「年々おもしろいほど激増」したそうです。
【専業通販会社】
日本初の専業通販会社・東京用達合資会社(設立者氏名不明)は、1894~95年(明治27~28)の日清戦争の頃に発足しました。1902~03年(明治35~36)発足という説もあります。
東京用達合資会社は、カタログを春秋2回発行し、広範なアイテムを取扱うアメリカ式の通販で業績も順調でしたが、創業者の死去により廃業解散しました。しかし、その後社員が分散して通販事業を興し、通販業者乱立の時代を迎えます。
東京用達合資会社の直系としては、森又組と東京通商合資会社が、ともに海外植民地の在留邦人を顧客として発展。森又組(代表者:福中又次)は、美しいカタログで一時は三越の通販部をしのぐ勢いでしたが、2社とも数年で廃業しています。
理由はよくわかりませんが、明治の研究家・浜田四郎は、アメリカと比較して購買力の低さ、印刷や発送費用の高さ、利益率の低さ、大量受注に応じられない生産態勢が原因としています。
また、2社が廃業する頃の1911年(明治44年)には大谷兄弟商会が、1912年(大正元年には)桜井商会、大正屋などが参入しました。
大江兄弟商会は、個人向けの通販からスタートして、ことごとく失敗。社名を「大江商会」と改め、地方小売店向けの卸通販として成功しました。大江商会は、問屋では扱わないよえな小ロットの注文も受け、大口も小口も同一価格で安く提供した他、返品や交換にも応じました。しかし、大正の恐慌のあおりを受けて大正9年に倒産し、ハリキン商会に営業権を移譲しています。
以下は、大江氏の語った通販成功のためのアドバイスです。
1.販売価格は仕入原価に適正な利潤をもって勧めること
2.商品に精通し、安く売ることに重きを置くこと。便利さよりも安さである
3.我が国では売上額1,000万円程度までの通信販売はできるかもしれないが、それ以上の大規模の通販会社は、経験上採算が難しい
4.通販は一般問屋の販売補助策として有望である
5.客に満足を売ることに留意すること
6.価格の公正を示し、決して割引をしないこと
7.どのような小さな注文でも親切に取引すること
8.出荷を迅速にすること(受注後12時間以内に出荷)
9.苦情の解決は迅速に行うこと
当時の1,000万円が現在のいくらの相当するのかも含め、現在では当てはまらないこともありそうですが、CSを大切にして正直な商売をしようというのは、いつの時代も変わらない成功のための法則なのです。
【百貨店の通販】
百貨店が通販に進出したのは、明治30年代です。百貨店ならではの「信用」をバックボーンに大きな発展を遂げました。当時の百貨店は通販を、
①売上増大・利益獲得の手段
②商圏の拡大・地方客の吸収
③顧客サービスの一環
と捉えていました。
明治から昭和初期の日本百貨店組合員87店のうち21店が通販を実施していました。しかし、大正の大恐慌を境にして衰退し、通販部門は廃止・縮小に追い込まれました。最大規模を誇った三越でさえ、通販部は販売部の中に吸収されていきました。
●高島屋
高島屋は1899年(明治32年)5月、京都本店に地方掛を設置し、百貨店としては最初に通販に参入しました。1902年(明治35年)3月には、京都新聞や大阪朝日新聞の協力で編纂された写真入りのカタログ「新衣装」を発刊。表紙に意趣を凝らした情報発信誌として地方の有力顧客獲得に威力を発揮しました。
●三越
三越が通信販売に参入したのは、1899年(明治32年)10月。最初のカタログ「花衣」は、総ページ数365の豪華な冊子で、尾崎紅葉の小説なども掲載されていました。その後、「夏衣」「春模様」「夏模様」を経て「時好」というカタログに行き着きますが、小説や流行情報なども掲載し、読む雑誌としても充実した内容でした。モデルには、有名人令嬢や芸妓を起用しました。
他にも「ご婚礼の支度」「御髪飾の栞」「靴と鞄」「時計と指輪」「現代婦人化粧法」などのスペシャルカタログも発行。3色刷のカタログは1色刷よりも1.5倍の効果があり、見本をつけるとさらに5倍の効果があったそうです。
代金は正札主義で、店頭購入でも通販でも同じ金額に設定していました。また、前金制を採用していましたが、代金引換も可能でした。なお大正年間に入ると、返品交換にも応じています。
発足当時は1日の注文数が15~20口でしたが、翌年には150~160口に増加。明治41年には「地方係」の名称を「通信販売部」に改めました。係員は150名(全従業員数の約1割)で、1日の注文数も1,000口となり、三越が発送する郵便小包は、東京全市の13%を占めたそうです。売上高も明治末期には三越総売上高の2割を占めました。
利用者は主に地方と台湾、満州などの海外在留邦人でした。販売を促進するために、「註文の栞」「三越タイムス」をはじめ、靴や鞄、貴金属などのスペシャルカタログを送付。絵はがき、在京中の顧客への案内などパーソナル・コミュニケーションも行われていました。また、クレームがあればすぐに係員を現地へ向かわせるといった丁寧な対応で、ロイヤリティの確保にも努めています。
明治37年1月の「商業界」誌上で三井呉服店理事の高橋義雄は、「覚悟せよ」という論文を掲載。東京の百貨店が地方商圏を掌握する旨の論旨を展開するほど、通販は活況を呈しました。
●白木屋
白木屋は1904年(明治37年)に通販を開始。7月7日に「家庭のしるべ」(後に「流行」)を発刊しています。他社の広告を掲載し、広告費で発行費用をカバーしていました。販売にあたっては「購買品の選択はすべて当方に一任せらるべきこと」とし、白木屋が各人の年齢、体格、好みから選んだ着物を送る方法でした。この選定にあたっては、お客様の立場に立って行うことを第一義としています。
明治44年実績では、手紙到着数が1日平均300通、カタログの発行部数は4月18,000部、7月14,000~15,000部。当初3~4名だった通信販売課員が、44年には35名に増えていました。
次回からは、昭和そして第二次世界大戦後に入っていきます。ご期待ください。
(11月25日更新)
■商材で異なる企業の戦略
ここで、明治・大正期に日本で実績をあげていた通販会社を整理してみましょう。
商材によってターゲットも違いますから、カタログなどの作り方や顧客への接し方にも工夫が凝らされていました。
【時計通販:天賞堂】
顧客を中流以上におき、広告を通じたブランド戦略を展開して発展しました。
美しいカタログと著名人の名を有効に使ったブランド戦略を実施。一切値引きをしない代わりに保証書を発行して品質の高さをアピールし、信用と企業イメージを高めて成功を収めたのです。
・こだわりのDM
1882年(明治15)4月、銀座の印判店・天賞堂(創業者・江沢金五郎)が営業案内兼カタログを華族・官庁・企業・地方の地主等に送付しました。
「一流の品を作り、これを大規模に宣伝する」というのが天賞堂の戦略。印刻は天皇御璽制作者に、宣伝文は一流とされていた学者や文学者に依頼。25年にはこれらの名を連ねた広告を作成しました。これは、今でいうイメージ広告です。
こうした高級イメージを全面に押し出したブランド戦略で成功した天賞堂は、印鑑から時計へ、さらに宝飾品へと取扱品目を広げていきました。
・時計販売における企業戦略
時計の販売に際して、天賞堂がとった企業戦略は以下の通り。ここでも企業イメージの向上に力を注いでいます。
①広告第一主義 企業イメージを上げるように工夫。
②通販手法 代金先払い・商品後渡し。返品交換期間を30日と設定。
③正札主義の実行 1銭1厘たりとも値引きしない。
④出張販売 上流階級への出張販売実施。
⑤保存請負証書の交付 保証金を取って10~30年と超長期の保証書を発行。
⑥時計保険料金の返戻 明治25年に上記保証金を廃し、無償で保存請負証書を交付。
【製茶通販】
製茶の通販は、明治末期から大正初期にかけて盛んになりました。山城国宇治付近で、茶の販売を伸ばすために通販手法が取られ、古川七碗堂、林吾妻園、翠香園の三者が代表的な成功者でした。
林吾妻園の手法は、新規顧客獲得のために無料サンプルを配布するとともに、ディーラーヘルプのための広告を展開。同時に、継続顧客に対しては、売上高に応じて景品券を発行しました。また、年賀・暑中見舞い、水害などの災害時には慰問広告を出すなどしてパーソナル・コミュニケーションも図っています。
なお、同園や古川七碗堂では顧客名簿を各県別イロハ順に管理し、マーケティングに活用していました。
また、現存する翠香園は、1922年(大正11年)「旨いお茶を安く売る店」として通販DMを開始しました。広告郵便を使った2枚折り石版2色刷で代金引換を採用。広告郵便制度が廃止されるまでに約500万枚の広告物を配布し、3万人の顧客リストを獲得しました。そして、この3万人に対して愛茶家を紹介してもらう紹介制度でさらにリストを増やしています。
注文の少ない顧客には、隔月で「翠香茶報」という機関誌を送付。それでも受注がない顧客には「御用伺書」を発送して受注を獲得しました。顧客の脱落を防ぐため、「利益配分法」というスタンプ制度を実施したほか、年末大売り出しや初荷売り出し、新茶大売り出しなど季節ごとの年中行事も行いました。
このように、現在盛んに言われているCRMを、すでにこの時代の成功者は取り入れていました。成功するための根幹の法則は、今も昔も変わらないのです。
その他、メールオーダービジネスの研究家でもある村田千太郎が店主を務める京都田辺の村田園では、広告郵便ではなく、ターゲットを絞った「三種認可の新聞を用いた宛名式新聞広告」で成功を収めました。
物価が下落し一般農家が大不況に見舞われていた大正初期、裕福で購買力のある官吏にターゲットを絞って部数2,000余部で期間注文数400(レスポンス率2割)を果たしました。村田は「宛名式新聞広告の有効なるとともに、宛先の選択は第一の要点たることを忘れてはならぬ」として、リストの絞り込みの重要性を指摘しています。
次回は、その他の明治・大正の通販成功例についてお話しします。
■成功者たちの通販事業心得
明治の企業家たちが培った通信販売事業の心得をご紹介しましょう。
・誠心誠意を基本とする
・美麗なカタログを作る
・誇張した広告をしない
・顧客本位のコピーを書く
・顧客の信用を得ること
・分類したカタログを制作する
・男女対応の区別をする
・都会と地方への対応の差
・知力と経験と信用が大切
・前金制を撤廃する
・迅速な対応をする
・返品を自由とする
だそうです。
どう感じられますか?信用を得ることを第一に考えるとともに、現代のダイレクト・マーケティングで必要な、データマーケティングやフルフィルメント、またエリアマーケティングやパーソナルコミュニケーションについても言及しています。
驚くのは、このときすでに前金制の撤廃と返品の自由を謳っていることです。1990年代にランズエンドが日本に上陸したとき、いつでもどんな理由でも返品自由というコピーに衝撃を受けたものですが、明治の終わりに当時の企業家たちはすでに謳っていたのです。言い換えれば、それはCSが一番大切ということです。
■当時の通販への視線
しかしまた、明治43年に、東京高等商業学校の石川文吾教授が「通販が日本で成立しない理由」として以下の5つを挙げていますから、それもご紹介します。
①村と都会の距離感
日本の国土は狭くて人口過密なので、少し歩けば日用品の買い物に不便はない。そのため、通信販売を利用して都会から取り寄せる必要はない。
②商品に対する信用程度の相違
米国ではカタログと実物が違うのはあり得ないことになっているが、日本の消費者は商人をそれほど信用していない。
③カタログ印刷の困難
日本の印刷は、技術が幼稚で実物の色彩を見ることはできないし価格も高い。
④郵便制度の不完全
米国では郵便制度が遺憾なく発達しているが日本では未発達。米国のように小包、為替、カタログが安心して迅速に、そして安価で届けることができない。
⑤日本語圏の範囲が狭い
英語のように広い地域に言葉が通用しない。
この石川教授の意見を精査すると、現在では解決しているインフラもあるし、できるようになった技術や当時とは異なる人々のライフスタイルもあります。
①の村と都会の距離感については、ただ商品が買えれば良いという生活ではなくなり、消費者はより便利なもの、よりセンスの良いものを求めています。また逆に産地直送のように美味しいものや本物への志向が強まりました。
②の商品に対する信用程度の相違は、まだ一部に悪徳業者はいるでしょうが、法的規制の強化や通信販売協会など業界団体の努力で排除される傾向にあります。
③④については、印刷技術は進歩して世界最高水準となりその価格も安くなっています。ただ、郵便料金は諸外国に比べると相変わらず高いままで、最大の通信販売発展の阻害要因ですが、宅配便などの台頭などにより状況はかなり改善されています。
つまり、⑤を除いては日本も通販に適した状況になっているわけです。
しかし、この⑤は石川教授の意見がアメリカのカタログ通販の成功との比較から発想しているからであり、日本の市場だけでも充分大きいと考えられる現在では、的を射ていない指摘だと思います。
次回は、商材別に見た企業方針や成功例を中心にお話しします。
今、街の商店街には空き店舗が目立ち、百貨店やスーパーも苦戦を続ける中で、売上げを伸ばしている通信販売がますます注目されています。
過去を振り返れば、日本に通信販売は育たないとか、通信販売はインチキ商売と言われた時代もありました。しかし、実は明治の昔からきちんとした商売をして成功していた会社はあったのです。
そこで、日本における通信販売の成り立ちから、第二次世界大戦後のアメリカ型通販システムの流入、そしてここ30年くらいの単品通販の著しい成長を総括し、成功を勝ち取る方策とは何かを探りましょう。
成功した企業に共通する考え方を見つけたり、一時は栄華を極めた会社がどうして衰退していったのかを見つめ直すことは、これから通販企業を目指す方、そして今まさに立ち上げようとしている方のお役に必ず立つことと思います。
■通信と物流が通販の基
歴史を眺めてみると、イギリスでもアメリカでも郵便制度が整って情報や品物を届けることができるようになると通信販売が生まれています。それは日本においても同様でした。
つまり、情報の伝達と物流システムが通信販売成立のための必須インフラなのですから、情報伝達の方法がテレビやインターネットに変わったり、物流の選択肢にメール便が加われば通信販売のシステムや形態も変化します。この変化を的確に捉えて活用した会社が成功するのかもしれません。
■明治の種苗通販
日本の通販は、明治の初期に欧米視察団の一員であった農学博士・津田仙(津田塾大学創始者の津田梅子の父)によって始められました。
米国の発達した農業をみて、農業革命の意欲に燃えていた津田仙博士は、麻布に農業講習所「学農社」を開講。同時に、広く農業知識を普及するために「農業雑誌」を創刊しました。そして、1876年(明治9年)発行の8号に、郵便による申し込みを受けて商品を送付する旨の「稟告」を掲載。これが種苗通販の始まりです。最初は「米国良種の玉蜀黍(1袋十銭)」を販売し、前金2,000円の売上げ。これが学校経営の大きな財源となりました。
その後、種苗通販は隆盛を迎えます。米ヘンダーソン社やバービー社(現存しています)などの外国カタログを直訳し、国産種子も加えたみすぼらしいカタログではありましたが、村々へと巡回され、「希有の珍種のごとく貴ばれて、甲より乙、乙より丙へと村中に引張りまわされ」大きな利潤を上げたそうです。
明治20年代の黄金期には、カタログの発行部数に対して注文数は5~6倍というデータもあります。いかに農民が新しい種苗苗木に深い関心を持ち、相競って購入したかがうかがえます。
しかし、こうして栄えた種苗通販は、相手を出し抜くことに専念する企業間競争が価格競争となってしまい、その結果、粗悪な商品を売る悪質な業者を出現させました。そして、そのことが顧客たちに不信感を持たれ、衰退への道をたどる羽目になってしまいました。
■総合カタログも登場
日清戦争後の1899年(明治32年)には高島屋、三越などの百貨店も種苗通販に参入。さらに新聞社、雑誌社なども加わりました。さらに、日本最初の通販専業企業の東京用達合資会社が誕生。20世紀の初頭には、アメリカで成功していたシアーズ・ローバックやモンゴメリー・ワードのような総合カタログを用いて、種苗だけでなく舶来雑貨などの通販も開始。売上げを伸ばしました。
明治37年1月の「商業界」誌上で三井呉服店理事の高橋義雄は、「覚悟せよ」という論文を掲載。東京の百貨店が地方商圏を掌握に収める旨の論旨を展開するほど、通販は活況を呈していました。
1910年に通信販売売上高日本一になった三越では、通販を戦略部門の一つとして位置づけており、国内だけでなく、台湾、朝鮮、その他の外国までをカバーしました。
三越が最初に出したカタログ「花衣」は、総ページ数365の豪華な冊子で、尾崎紅葉の小説なども掲載。その後、「夏衣」「春模様」「夏模様」を経て「時好」というカタログに行き着きますが、これには小説の他に流行情報なども掲載し、読む雑誌としても充実した内容でした。そしてモデルには、有名人令嬢や芸妓を用いていました。
しかし、当時の百貨店系の通販は、基本的には外商部門を拡大させたと考えた方が正しいでしょう。店舗の販売エリア外にあり、外商担当者が足を運ぶにも遠すぎる地方の資産家に、百貨店のブランドで物を販売するためのものだったと考えるのが正しい評価です。
このようにして、カタログ通販は効果的に機能しましたが、その背景には格安でターゲットをセグメントしてポスティングしてくれる「広告郵便制度」の存在がありました。これは郵便配達員がカタログに掲載されている商品に興味がありそうな家庭を選んでポスティングしてくれる制度で、リストの整備されていない時代には大きな効果を発揮しました。
資料によると、当時のリストは1件1円と大変高価だったのですが、この「広告郵便」は5~12銭でしたから、ダイレクトマーケティングが容易にできたそうです。大正14年に手間がかかるとして廃止されてしまったこの制度ですが、今後どこかの宅配便会社が復活させてくれるかも知れません。
しかし、これら明治期の通販も短命に終わってしまいました。そして、大正時代に入ると通販会社はバタバタ倒産していきました。その理由は、大恐慌に加えて、種苗通販と同様に悪徳商法の横行と顧客リストの重複、そして商品の重複だったのです。
次回は、成功者たちの通販事業心得や当時の通販への視線についてお話しします。